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漆黒の陸前高田

震災の2日後、なにかしなければと物資をかき集めて向った岩手県野田村、あのときは被災地のほんの一部を垣間見たにすぎませんでした。

 その後は、被災地に直接足を踏み入れることなく、募金活動に参加したりなどしていました。

 あれからしばらくの時間が過ぎて、まるで以前と同じ様に戻ったかのように生活ができています。

 もちろん、ニュースでは毎日のように原発のこと、電力のことなどが話題になってはいますが、
それほど遠くない場所で、あの時と同じような大変な生活を強いられている人がいるということが、
自分の中でも薄れ掛けているような気がしていました。

 
 その気持ちを吹っ切るかのように、7月のはじめに高速道路を南下し岩手の県南に向っていました。

 北上JCTから釜石自動車道へ、釜石自動車道という名前ではあるけれど、実際はほとんど建設予定道路で
数キロ先からは一般道を走ることとなります。
 高速から降りた瞬間、ある種の看板が目に飛び込んできました。

IMG_3439.jpg

看板を見た瞬間、なぜか涙がこみ上げてきました。
釜石方面に向うにつれて、東和、みやもり、遠野、街のあちらこちらにこのような感謝の看板が数多く掲げられています。
 自分たちが被災しているのに、救援に来てくれた人たちに心を配ることができる。
 人間はすごい生き物なのかもしれない・・
そう感じずにはいられませんでした。


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このあたりから、車は一気に県外ナンバーが多くなっていることに気がつきました、それも隣接県の青森や秋田などではなく、「なにわ」とか「静岡」とか、とてつもなく遠いところからの車が目に付くのです。
 それと同時に、県外ナンバーの警察、消防、トラック、自衛隊車両など、その先があきらかに非常事態であることを感じさせるに十分な量の車両が行き交っています。

 ほどなく、釜石市内に入ってきました。
 正直少し拍子抜けした感じがしました。ファーストフードもコンビにも行き交う学生の姿もあまりに普通に見えました。何年か前にここを走ったときとまったく変わらないような感覚さえ覚えました。

 しかし、それはこの街の一面でしかないことが、そう時間をおかずにわかりました。
 港に程近い商店街の地域、昔ながらの釜石の中心街の地域は、町が静止し、空気や時間までもがあの3月11日の光景そのままに、いまだそこにありました。
 あまりに衝撃的な光景に頭がぼーっつとしたまま、流れるままに北へ向かっていました。
 長いトンネルを抜けた先の両石地区は海霧につつまれていましたが、道路は崩れ片側交互通行状態、信号待ちでしばらく待っていると、海霧が風に流され、廃墟と化した両石の全貌が目の前に突然顔を出しました。
それは、背筋が寒くなる光景でした。一面の瓦礫、ここに街があったことは理解できるのですが、それを想像することが息苦しくなるような惨状でした。
 峠を越えた鵜住居地区、その先の大槌町へ
 大槌町は津波の後火災が発生したとも聞いていました。また、町長や町の職員の多くが町役場ごと津波に飲み込まれてしまったとも聞いていました。
 人口1万人以上の街の中心街だったところは、人気もなく、3階以上のビルだけはかろうじて骨組みを残し残骸と化し、それ以外の場所はかろうじて道路とそうでないところの違いがわかるほどに粉々になって瓦礫と化しています。

あまりの壮絶さに、たたずむことも出来ずにしばし車を走らせ、沿岸部の郊外、稲荷神社の近くで車を止め
瓦礫に身を寄せてみました。
IMG_1181.jpg
そこには、ついさっきまで子供が抱いていたかと思うようなウサギのぬいぐるみ、そのすぐとなりにはどうやって破壊されたか想像に絶するような鉄筋入りのブロック塀の断片、魚の骨、またその隣にはスプーン・・
軟、鋼、柔、鋭、普段同居するはずもない、ごちゃ混ぜな物が泥の中に混在し途方もなくどこまでも広がっているのです。視界の限り何キロも・・。




 入り組んだリアスと呼ばれるこのあたりの地形は起伏が激しく、沿岸の国道45号を走っていると「津波危険地域ここまで」といった看板が随所に目に付きます。
 おどろいたことに、ほんとに看板どおりに、そこから先は激しく壊れ果てていて、そこから高地は以前の景色をとどめていました。

 釜石から南下、大学時代に宇宙放射線の研究で滞在したことがある三陸町吉浜地区、駅周辺は無事だったことを確認しながら大船渡方面へ向いました。
 このあたり、三陸自動車道が一部開通していて、部分的ではありますがかなりの高台を高速に駆け抜けてゆくことが出来ます。
 午後7時を回り、薄暗くなりかけていた大船渡市は、私にはある程度の街の明かりも確認することが出来ました(あとでそれは、まちの郊外の部分だけであることがわかりましたが)。




闇の陸前高田市街 ---------------------------------------

 
 あたりはもう暗くなっていましたが、私の足は、岩手県の沿岸最南端の街、陸前高田市に向っていました。
 仕事でお世話になっている会社の営業の方の出身地がたまたま陸前高田市だというのがその理由ですが、「ご出身はどこですか?」と聞いたときに、「岩手の沿岸の最も南の街です」といわれ「大船渡!」「気仙沼!」などと答え、最後まで当てることが出来ず、その方がどことなくさびしそうだったので印象に残っていたのです。
また、大震災後、その方にお会い出来ていないということも、どことなく足を向わせていました。

 三陸自動車道の終点を出て坂を下り、カーナビで把握する限り広がる陸前高田市の入り口に入った瞬間、
一面の闇が広がっていました。というかそこが陸前高田市であることが理解できませんでした。
 ヘッドライトが時折、右側の道路わきに5階建ての集合住宅の廃墟が聳え立っていることや、左側に高層のホテルの廃墟があることを浮かび上がらせます。
 カーナビでは確かに、そこに野球場があり、道の駅があり、ホテルがあり、住宅があり、コメリ、ツルハドラック、しまむらがあり、田んぼの向こうにはにぎやかな中心街があるはずなのに、
 車をとめ、思い切って外に出て町の方向を見渡せば、10mの高さに及ぶかと思われる瓦礫の古墳のような山と、暗黒の闇しかそこにはないのです。まったく信じられない光景がそこにありました。

 都市が、人が、まるごと消え去ってしまったのか・・、
 めまいのような感覚に陥りながら、内陸に車を走らせても、おどろくことに内陸のどこまでいっても瓦礫が続いていました。あとで地図で見て理解したのですが、内陸およそ6キロ程度まで津波が押し寄せていたのです。
 恐怖感を感じながら、人の気配を探して陸前高田の町を走りました、内陸の山道がバイパスのように利用されていて、ようやく見つけた小学校の校庭にひしめくように仮設住宅が並び、非難している人たちの姿を見ることが出来、なぜかようやくほっとすることができました。

 暗闇の記憶ではいけない・・
 翌朝、あの闇の実態を目の当たりにすべく、陸前高田の中心街へと向いました。

IMG_1834.jpg

 こんなことがありえるのか・・・

 近代の市街地がまるごとそっくり、どこかへもっていかれたような空間でした。

 実際にそこ立っているのに、それは現実ではなく、映画かなにかの1シーンのようにも思えました。

 でも、陸前高田市はこの世に1つしかなく、駅も、駅前の薬屋も、役場も、ショッピングセンターもすべて本物、現実です。
 そこに面々と続く歴史や人々の暮らしがあった。



 想像を絶する出来事が起こったこと、それは残念ながら現実であり、その渦中にいま私たちはいるのだということ、

 野次馬的だったかもしれませんが、それを自分自身強烈に感じました。


 知ること、考えること、行動すること。



 わずか半日で来れる所にある現実とどう向き合うか、

 改めて考え、そして行動することを決意しました。



 
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同感です!

私は先週、大学のクラス会で仙台へ行き、当時の話を聴き、GWにボランティアした地区を訪ね、「いま、ここ青森で、自分にできることは何だ!」と問いかけてます。
一緒に行動起してもいいですね。
因みに、防災士会は奇数月募金活動、偶数月物資支援を一年間続けます。
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星空や雲、海岸や山並みなどの風景を素敵な音楽にのせて紹介しています。

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